列島西南端の古墳時代墓制
−奥山(六堂会)古墳調査成果から−

    橋本 達也 


 1.奥山(六堂会)古墳の調査成果
 鹿児島大学総合研究博物館では南さつま市加世田小湊に所在する奥山古墳(六堂会古墳)の発掘調査を2005年3月・8-9月の2次に渡って実施した。第1次調査の成果はすで昨年の研究発表会にて発表しているので、今回は第1次と第2次調査の成果をあわせて、そこから派生する問題について検討を加える。なお、六堂会古墳と呼ばれてきた当該古墳の名称には問題があることは、すでに指摘していたが2005年に市教委によって正式に奥山古墳と改称されている。
 奥山古墳第2次発掘調査では、墳丘形態の確認を目的とした。その結果、本古墳が尾根背部側に墳丘区画溝を持ち、他の三方向はテラス面の削りだしによって造られる直径13.5mの円墳であることを確認した。また、墳丘区画溝には渡り土手があり、溝内部からは古墳祭祀に伴うと見られる土器が多数出土した。土器は古墳時代前期後半に属し、在地の成川様式を主体としない。
 また、あわせて石棺石材の検討を行ったところ、石材は三種からなり、そのうちの一つが天草地域で顕著に分布する砂岩であり、搬入品であることが確認された。昨年指摘したように石棺製作技術も天草地域から導入されているとみてよく、これらによって本古墳の出現の背景には古墳時代社会における広域の地域間交流が役割を果たしていると考える。

 2.薩摩半島の古墳時代墓制
 薩摩半島地域において奥山古墳以外では、現状で阿久根市鳥越古墳、指宿市弥次ヶ湯古墳が知られ、薩摩川内市「端陵」が古墳である可能性を指摘でき、他には薩摩川内市の安養寺丘古墳・船間島古墳などが加えられる程度であろう。
 一方、北薩地域から人吉盆地・えびの盆地までの地域には古墳時代前期〜中期前半に板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)が分布する。ただし、これらはおおむね中期後半以降は存続せず、土壙墓などの他の墓制に置き代わったとみられる。 
 南薩地域では成川遺跡に代表されるように土壙墓や土器棺墓が確認されている。古墳時代の全時期を通して南薩地域では土壙墓・土器棺墓が主体であった可能性が高い。

 3.列島西南端の古墳時代墓制の意義
 土壙墓・土器棺墓は、前方後円墳を中心に首長層の社会的秩序を表出する古墳とは本質的に異なり、階層構成の不明確な集団墓である。古墳時代開始以後の南薩地域は基本的に弥生時代以来の社会構造を基盤とし、地域間交流も社会変容を伴うようなものではないきわめて限定的なものであったみた方が良いだろう。そのような基盤の上に、薩摩地域でも広域地域間交流の拠点地域において古墳は点的に波及した。
 すなわち、鳥越古墳、奥山古墳、弥次ヶ湯古墳などは熊本地域を経由する九州西海岸ルートの地域間交流によって影響を受けた社会において存在意義が見いだされたと考えられる。しかし、前方後円墳が不在であることは近畿を中心とする首長間ネットワークとは一定の距離もうかがえ、社会構造も他地域との間には差が生まれていた可能性がある。
 また、中期後半とみられる弥次ヶ湯古墳以後、後期古墳は薩摩地域には見られず、川内市大島遺跡、枕崎市松之尾遺跡、国分市亀ノ甲遺跡などから見ると土壙墓が主体になったことがうかがえる。古墳時代中期後半以降は近畿中央部政権を中心とする政治的求心力が高まり始めると、広域交流ネットーワークの氾列島的再編がなされ、薩摩地域は集落構造や土器の様相などとともに墓制でも独自の個性化を進め、より周縁化が進行することになるものと考える。 


 註) 発表資料の図はモノクロです。