総合研究博物館標本概要

鹿大標本の研究利用

 1. 島嶼域における生物相進化と生物地理の研究

  最近、琉球列島からあいついで発見されているゾウ、シカ、カメ、カエルなどの化石は、島嶼域における
 種分化、矮小化、固有化のプロセスの研究に使用されている。
 また、日本やアジアの島嶼域で採集された現生の動植物標本は、島嶼における生物分布と生態系の
 特異性を解明する研究に用いられている。

 2. 生物相と生物多様性の研究

  九州南部から東南アジアに至る地域で収集された昆虫類や高等植物の標本は、温帯から亜熱帯をへて
 熱帯へと移り変わる生物相の成立ちと生物多様性を解明するために使われている。
 また、戦前から現在までに収集された膨大な数の高等植物標本は、この地域における植物相の変遷を研究し
 絶滅危惧種を保護するための重要資料であり、鹿児島県のレッドデータ対象種の選定にも使われている。

 3. 水産資源の評価と保全に関する研究

  九州周辺から南太平洋に至る海域で採集された甲殻類・魚類を中心とする海産動物標本は、水産資源の
 分布と現状評価の研究に使われている。これらの動物はしばしば幼生と成体がまったく異なった形態をもつが、
 本学には幼生と成体の正しい組合せを確定できる標本が多量にあり、水産資源となる種の生活史解明や
 資源の適正保全のために活用されている。 

 4. 先史人類遺跡と家畜の由来の研究

  土器標本は比較研究によって、九州と琉球列島の地域間交流と海路による人の移動経路の研究に利用されてきた。
 さらに南九州有数の古墳時代集落である鹿児島大学構内遺跡より多量に出土する土器資料は、南九州を
 取り巻く地域間交流の研究にきわめて有効な資料群である。
 また学内で採取されたボーリング・コア標本は、炭素14年代や火山灰による年代値と組み合わせることによって、
 プラント・オパール分析による初期稲作の証拠となっている。
   一方、日本各地の遺跡から発掘されたニワトリ、ウマ、ウシ、ブタ、ヤギなど重要家畜の骨化石は、
 形態や微細構造をもとにした家畜の類縁関係推定に用いられ、日本における家畜の由来を研究するために
 利用されている。出土骨標本はまた、DNA情報の抽出と分析を通して、それらと在来家畜との遺伝学的な関係を
 解明するのに用いられている。


 標本類の現状

  現状では、貴重な標本類は充分に活用できない状況にある。
 その理由として空間的な制約や標本の整理保管作業を遂行する研究者・技官などの不足があげられる。
 また、大学全体としての標本への理解の不足も否めない。

 1. 化石標本類等

  理学部の南九州から琉球列島にかけての地域の脊椎動物化石の集積は、世界的にも有数のコレクションに
 成長しており、教員の研究のみならず学生の教育に重要な役割を果たしているし、国内外の研究者の利用も
 年間40件を越える。また、化石は重複標本がほとんどないという特殊事情があり、重要な化石の借り出し/貸し
 出しも頻繁に行われているが、それらの業務は教員の教育研究の合間を縫って行なわれており、その仕事量は
 さらに増えつつある。また保管場所も、標本室だけでは足らず、廊下に山積みされていて、部外者への公開や
 利用の拡大が思うにまかせない状況になっている。
 鉱物や岩石の標本類は、部内の教員や学生の利用の範囲にとどまっている。
 また、保管場所がないために相当量の鉱物標本が学外に保管されている状況に至っている。

 2. 植物標本類

 農学部の標本室に所蔵されている資料は、南九州から琉球列島地域の植物相の研究の基礎資料として
 欠くことの出来ない標本資料であるが、管理体制は農学部にまかされていて、それが利用を制約している
 (植物標本を利用しない研究者が管理者)。
 全国の研究者から利用についての問い合わせがあっても、対応が機敏に出来ない状況にあるため、現在は
 研究者の年間利用者は10名程度で、また学生の卒業研究などでの利用も年間20件程度である。
 農学部の標本資料には、多くの植物愛好者の採集にかかわる標本も納められているが、
 これら民間人の標本利用も困難な状況にある。理学部所蔵の植物標本は、教員だけでなく理学部・研究科の
 学生の教育と研究に活用され、その利用率は高いが、未整理標本が多い。
 また、これらの標本の利用は、研究室内に保管されているため、部外者にとって困難な状態にある。

 3. 動物標本類

 農学部及び理学部に保管されるハチとアリ類の昆虫標本も、教員の研究だけでなく、学部・研究科学生の
 教育や研究に活用されているが、理学部では標本の収集・管理が学生たちのボランティア活動によって
 支えられているのが実状である。これら標本は原則的には公開ではあるが、貸し出し業務はほとんど不可能で、
 標本の研究のためには鹿児島を訪れなければならない。
 しかし、研究者が来訪しても、標本類の研究を行なう来訪者用の研究室も顕微鏡もないのが実態である。
 そのため外部の研究者の利用は制限せざるを得ない状況で、外部研究者の利用は年間30件をこえない。
 しかし、理学部のアリ類の標本収集と同定整理は、東アジアから東南アジア熱帯地域の生物多様性研究の一環として
 進められており、各地から多数のアリ類の標本が集まっている。
 同定整理された標本の多くは、その標本が採集された現地の博物館などに送り返されて研究に利用されており、
 活発な標本収集と研究活動の国際的中心に位置づけられている。
 この国際的なシステムの下で、最近は1年間に約1万点のアリ類標本が処理されている。

 4. 考古発掘調査資料類
 発掘調査資料標本類は、その整理や保管に様々な技術が必要であるが、現在は発掘調査結果の整理を
 完全に終えることができず、大量の未整理標本を抱え込む事態になっている。
 その保管場所も分散しており、貴重な標本類が安全に研究教育に利用できると言うにはほど遠い状況にある。
 良好な土器破片などは復元されて、教育研究に活用はされているが、多くの資料は人手不足もあって復元作業も
 進んでいない。
 遺跡発掘調査資料は社会的には公開が原則であるが,それを完全に実行するにはほど遠い状況にある。

 5. その他の標本資料類

  本学の相当量の標本資料は研究室で保管され(独立した標本室がない)、それらの多くは公開を目指しても
 果たせない状況であるし、外部の利用は制限された状況にある。
 例外は植物映像情報で、研究室で保管されてはいるが、映像データベースの存在が公開され、
 地元テレビ局などからの資料映像利用の申し出や、映像情報をビデオテープに編集して博物館や植物園に
 提供することが行われている。現在までに約50本の植物映像テープが編集されている。



 将来における異分野への学術標本の活用と利用の促進


 本学に所蔵される動植物標本は基本的に分類学的な研究を目的として収集・研究・保管されてきたが、
 系統的に採集保存されてきた標本は、異分野にとっても貴重な資料になってきている。

 a. 自然災害研究

  日本列島は毎年多くの気象災害を繰り返している。特に南九州地域は、特有のシラス(火砕流堆積物)が
 広範に分布し、崩落災害が多発している。地質が関係したこれら災害の発生機構の解明には、地質学的な
 基礎研究が必要である。この研究過程で、鉱物、岩石などの学術標本との比較・対比研究は欠かすことが出来ない。
 本学には、このような研究に必要な膨大な岩石、鉱物だけでなく、多くのボーリングコア標本が所蔵されている。

 b. 水産資源の保護育成と養殖

  本学の太平洋海域から捕獲された魚類標本は、色々な成育ステージの稚魚から成魚までを含み、
 漁労対象魚種の生活史(産卵場所、稚魚形態やその生活場所)の解明、さらには資源保護や養殖に関する
 基礎資料として利用される。稚魚は成魚とは異なった形態と生活様式を持っており、成育段階を追ったその変化の
 シリーズが各成長段階を含む豊富な標本資料に基づいて解明されないと、資源の保護や稚魚を採取しての
 養殖事業は成り立たない。水産資源として重要なエビやカニ類についても事情は同じである。

 c. 木材等の自然資源研究

  植物は循環利用が可能な自然資源として、人類にとって最も重要な存在である。植物の資源としての利用は
 多岐にわたり、それらの開発利用の研究の基本には、利用対象種の同定や分布の研究を欠くことが出来ない。
 この基本情報は学術標本の形態で集積・整理・保管されている。
  樹木種やそれから得られる木材の諸性質については林学による長い研究の歴史があるが、それは有用とされる
 特定の樹種について集中的に行われてきた。雑木として軽視されてきた多数の樹種、特に九州から
 琉球列島地域の常緑広葉樹の中には優れた材質を有する種があり、それらの利用開発研究のためには、種を
 識別する押し葉標本と種が同定された木材標本が必要となる。
  この基本となる標本資料は分類学的研究を主たる目的とした学術標本に求められる。
 植物資源から抽出される各種の有効成分は、薬用だけでなく香辛料や精油など多岐にわたるが、
 将来石油資源が枯渇すれば、植物からの炭化水素が重要な代替え資源になる可能性がある。それについての
 研究においても、成分を含有する種の同定や自然分布域の基礎的な研究のためには学術標本が必要である。

 d. 園芸資源植物の開発

  南九州から琉球列島地域はテッポウユリやカノコユリ、あるいはクルメツツジのような世界的に重要で有名な
 園芸植物の原産地であるが、他にも多くの園芸植物としての利用が望まれる野生植物を有している。
  それらの開発研究のためには、対象種の種の同定や分布域の解明、野外での変異などについての基礎研究が
 必要である。この地域から収集され、分類学的に良く整理された学術標本が基本的な研究資料となる。
 現在の日本の緑の環境を求めてのガーデニングの流行は、欧米で品種改良された植物が中心になっているが、
 日本原産の植物を利用した園芸植物の育成と世界への発信が望まれている。

 e. 環境調査や地域研究、さらには地域の政策決定への寄与

  平成9年に環境影響評価法が制定され、一定規模以上の開発行為につては大気汚染等の公害、地形や生物、
 景観等に対する影響について事前に詳しく調査し、影響の有無を明らかにすることが義務づけられたが、
 正しい評価をするためには、生物であれば正確な種の同定とその種の生態や分布のデータが必要になる。
  その基礎資料として、学術標本はかけがえのない資料である。
 例えば、現在環境庁や各地方自治体で、生物多様性の保全を目的とした絶滅危惧種の調査が進められている。
 本年8月に公表された「植物」のレッドデータブックでは、鹿児島県には約450種の「絶滅危惧種」が記録されている。
  これは全国の都道府県の中で群を抜いて多い種類数である。
 この調査の過程では本学に所蔵される植物標本に基づく情報が基本データとして利用された。
 また現在進められている鹿児島県の絶滅危惧種の調査でも、本学の動植物標本からの情報が
 基本的なデータとして活用されている。
  学術標本は研究だけでなく、国や地方自治体の政策立案や決定においても、
 基本的なデータの抽出資料として活用される。

 f. 薬物開発に関連した本学の標本の利用

 生物から薬理作用を有する有効な成分を抽出研究し、新しい薬物を開発するには、まず対象の生物の
 分類的な位置と正確な名前の同定が必要がある。

 <植物>

  九州南部から琉球列島地域は、湿潤で温暖な気候に対応して多くの熱帯・亜熱帯系の植物が生育し、
 その種類や分布については良く調査研究されている。
 この地域の十数万点にものぼる膨大な植物標本が本学に集積されている。

 1) かって、悲惨な病気であった小児麻痺の対症薬や治療薬として神経機能を活性化する向神経薬の開発が、
 1950年代から60年代にかけて努力された。そして琉球列島に分布するアマミヒトツバハギやヒガンバナの
 仲間に含有されるアルカロイドにその作用があることが判明し、その分類や有効成分の抽出実験が進められた。
  これら植物の日本でもっともまとまった標本は鹿児島大学にあり、有効成分を有する植物種の同定や分布情報の
 抽出に利用された。しかしポリオの生ワクチンが開発されたため、これら植物の有効成分の研究はそれ以上は
 進められなかった。

 2) 現在に至るも沖縄や奄美群島の民間薬の研究はそれほど進んでおらず、民間で利用されていた記録も
 ほとんど残されていないが、本学に所蔵される植物標本は、この琉球列島域の民間薬利用に基礎をおいて
 新しい薬物開発における基礎データとして重要になる。
 また東南アジア地域の本学に集積されている標本も、その活用が期待される。

<動物>

  フグ毒に代表されるような海産動物の特異な生理活性物質の探求は最近急速に進みつつある。
 奇妙な生理作用を有するペプチドやタンパクが海産動物から見いだされている。
  本学は黒潮海域の豊富な海産動物の標本を所蔵しており、それらは全く新しい視点からの特異な生理活性物質
 (新しい薬理作用を有する薬物開発)をもたらす基礎資料となる。
 本学理学部においても、海産動物の生理活性物質の研究は活発に進められているが、それは材料が手近に
 すぐに手に入り、その種類の同定分類が、標本資料を利用して進められる体制にあることが研究の進展に大きく
 寄与している。