有限責任中間法人日本考古学協会第70回総会 研究発表要旨』 2004.05.24

南限域の古墳・地下式横穴墓・初期須恵器−岡崎18号墳発掘調査−

                                   橋本達也  


 1.古墳築造南限域の研究と岡崎古墳群
 大隅半島・志布志湾岸に面する肝属平野周辺は前方後円墳築造の南限域である。この地域には140m級の大型前方後円墳、唐仁大塚古墳・横瀬古墳を中心に、唐仁・塚崎古墳群などの前方後円墳を含む大型の古墳群が存在する一方で、同時に南九州独特の強い個性をもつ地下式横穴墓も多数存在する。また、隣接する薩摩半島側では前方後円墳を中心とする古墳は築造せず、また異なる社会的様相を呈していたと見られる。
 すなわち、この地域は多様な墓制が共存する古墳築造の周縁域であり、なぜ古墳をつくるのか、つくる人々・つくらない人々はいかなる存在なのかという古墳築造の本質的な意味とその地域でのあり方など古墳時代史論を考える上できわめて重要な位置づけを担っていると理解する。
 しかしながら、これまでこの地域における調査はごく限定的に行われたに過ぎず、古墳の実態を明らかにするまでには至っていないといえる。そこで、発表者はこの古墳築造南限域の様相の実態解明を目指して、2002年・2003年度に4次にわたる発掘調査を、鹿児島県肝属郡串良町に所在する岡崎古墳群において実施してきた。ここではその調査成果の紹介を通して、肝属平野の古墳について考察する。
 岡崎古墳群 岡崎古墳群では現状で20基ほどの古墳が確認されており、これまで串良町教育委員会などの調査により、古墳時代中期を中心とする古墳群であることが判明している。岡崎15号墳からは長方板革綴短甲・頸甲・肩甲や硬玉製勾玉などが出土し、岡崎4号墳は剣や鏃などを副葬する地下式横穴墓をその周溝に付随させ、共存している。この古墳群は肝属平野の西を画するシラス台地上の縁辺部に立地し、平野部との比高差は22m以上ある。本古墳群からは肝属平野の大部分が見渡せ、平野の中央部にある唐仁古墳群までは直線距離で約3.5kmであり、その位置を確認することができる。
 古墳群の構造 岡崎古墳群はその分布と形態から大きく3つのグループに区分できる。第1グループは古墳群中の北側から中央部に広がる台地やや内側に位置するもので、円墳と地下式横穴墓が同時に存在する。3つのうちではもっとも大きな群で200mほどの範囲をもつ可能性がある。第2グループは古墳群中央部にある現状で直径約5.4〜7.0m、高0.8〜1.6m程の小規模墳が東西方向に隣接して並ぶ密集型の群である。墳裾が隣接しており、地下式横穴墓なども構築されていないと考えられる。
第3グループはもっとも台地の縁辺部に近くに位置し、各々20mずつの広めの空間をもって並んでいる15・18・20号墳を中心とする群である。15号墳・20号墳は18号墳の調査にともなって我々が伐開作業を行い、両古墳ともに新たに前方後円墳である可能性が高くなった。とくに20号墳は岡崎古墳群中もっとも平野から見て目立つ台地先端部にあり、40m級の前方後円墳となる可能性が高い。15号墳および18号墳の調査成果からも岡崎古墳群中のもっとも中心的なグループであるとみられる。 



 2.岡崎18号墳発掘調査成果(2004年2月12日現在)
 墳丘 直径約20mの円墳である。墳丘の土はかなり流失しており、現状では墳端からの高さ2.5m程度である。葺石や埴輪はない。明瞭な掘り込みではないが、墳端部には浅い周溝状のくぼみが廻る。
 祭祀空間 墳丘東南側で土器をもちいた祭祀空間を確認した。土器は祭祀終了後、破砕されておりいずれも細片化している。器種は須恵器大甕・樽形ハソウ・ハソウ各1点の須恵器が3点あり、また土師器には高杯8個体以上を中心に、壺3、小型丸底壺2、小型壺1、小型鉢1などがある(数は整理途中で暫定的)。須恵器大甕はTK73型式に位置づけられるもので、地下式横穴墓竪坑のコーナー部に据え置かれていたことが判明した。すなわち、この土器群は古墳築造し、さらに地下式横穴墓を構築・埋葬を終了した後、その上部におかれ祭祀に用いられたと考えられる。これら土器が少なくとも2号地下式横穴墓に伴うことは確実であるが、その祭祀の対象がこの地下式横穴墓だけであるのか、古墳全体であるのかは解釈の余地があろう。
 埋葬施設 墳頂部での調査では埋葬施設は確認できなかった。これは墳丘の流失が著しいことによると考えている。また、中・近世にも古墳が削平されており、本来の中心埋葬施設は流失したのであろう。
 一方、墳丘の裾部分に地下式横穴墓が付随することが確認された。2基は確実に存在し、さらに1基の計3基存在する可能性が高い(04年2〜3月調査)。現在、調査を終了したのはそのうちの1基である。
 その、岡崎18号墳1号地下式横穴墓は竪坑長約2.4×幅2.4×深さ1.9m、玄室は奥行き約1.4×幅2.6×高さ0.88mを測る。玄室平面形は平入り(横長)で天井部は三角形を呈し、棟・軒を表現する家形である。壁面には工具痕が明瞭に残っていた。内部には花崗岩製の組合せ式石棺が安置されていた。石棺は長2.25m・内方2.0m×幅0.67−0.53・幅内法0.37−0.35cm×高さ内法0.35mを測る。
 副葬品は棺内から鉄剣2、鑷子・鉄斧・刀子各1、棺外から鉄?・U字形鍬鋤先・剣が各1出土した。鉄?は南九州で初出土であり、当然ながら地下式横穴墓でも初である。また、TK73型式段階のU字形鍬鋤先はこの型式の初現期に位置づけられ、鉄?とともに朝鮮半島系遺物である。鑷子もその可能性が高あろう。

 
 3.岡崎古墳群から派生する問題
 古墳と地下式横穴墓 古墳の周溝を利用して竪坑を築く地下式横穴墓はこれまでに数例確認されているが、多くは後期に属している。これまでTK23型式段階に位置づけられる岡崎4号墳が唯一の中期の例であったが、岡崎18号墳ではさらに古いTK73型式段階から地下式横穴墓が古墳に付随することが確認された。
 地下式横穴墓の初現 地下式横穴墓は出土遺物から中期前半代には出現することが確実であるが、大隅ではこれまで初期の地下式横穴墓が不詳であった。岡崎18号墳1号地下式横穴墓は大隅での地下式横穴墓の出現を考える上で初めて確実な年代をおさえることができた。なお、須恵器が地下式横穴墓に確実に伴って良好なセットを保っていた事例はほかにない。
 また従来、地下式横穴墓は概して妻入りから平入りへの変遷が考えられてきたが、本例は平入りが初期段階から存在することを明確にした。また大隅地域ではこれまで内部に軽石製石棺を安置することが知られていたが、花崗岩は初確認である。花崗岩製から軽石製へと変化した可能性も考えられる。
 土器の様相 鹿児島の古墳時代には成川式土器とよぶ独自性の顕著な土器様式が存在するが、岡崎18号墳出土の土器群は土師器と称すべきものである。また一括の中には成川式土器も含む。須恵器出土の少ない当地域において、これらの資料は今後、土器編年において基準資料となるばかりではなく、古墳時代中期の交流の諸相などの分析においても重要な位置づけを担うものと考える。
 物流をめぐる問題 墳丘裾部で出土した須恵器は当然、広域流通物資であり、また鉄?やU字形鍬鋤先など半島系文物も入手している。地下式横穴墓をつくり始めた人々は単に独自に個性的な墓制を発案したのではなく、広域におよぶ情報源をもつ古墳時代の社会関係に連なり、あえて地下式横穴墓という墓制を生み出しているのである。なお、肝属平野では岡崎18号墳のほか樽形ハソウが2例出土しており、岡崎18号墳のみの単発的な事象ではないことは明らかである。
 肝属平野における古墳時代の社会構造 岡崎古墳群の造営は、唐仁古墳群、横瀬古墳の築造期に併行する。すなわち、この地域の盟主墳には大型前方後円墳があり、岡崎古墳群はその下位の首長墳と位置づけられる。唐仁古墳群や横瀬古墳付近には地下式横穴墓はないから、古墳と地下式横穴墓の共存化も中下級首長層のもとで起こった可能性も考えられよう。また、大首長のみではなく中下級首長層にまで、広域流通財が供給されており、肝属平野においても古墳時代中期には列島規模の政治的・社会的共有圏に属していたことが読みとれる。一方、最終的には律令国家により、異民族・隼人として疎外される列島社会との乖離の兆しが墓制・生活様式・各種生産物などにおいて中期に始まり、古墳時代後期に明瞭化して行くのである。
古墳築造南限の肝属平野の古墳とそれを取り巻く文物のあり方は、古墳時代社会の構造を読みとる上できわめて重要である。今後、資料整理を通じて、さらにその意義を明らかにして行きたい。